東野圭吾『宿命』『どちらかが彼女を殺した』

ここのところの忙しさの反動か、無考えにただ読みたいだけの本をごっそり買ってきました。1冊読んでみて反りが合うなと思うと、ついつい安直に同じ作家の作品を連続で読んでしまう傾向があるんですが、彼もその一人です。とても愛好家と胸を張れるほどの数を読んではいないので迂闊なことは言えないんですが、今回この2作品を立て続けに読んで感じたのは、語弊があるかも知れませんが、作品毎にテーマとなるギミックを設定して、その価値を最大化するために精緻に筆を進めるタイプの作家だなということです。

ギミックと書くと非常に安っぽく捉えられてしまいそうですが、プロット上の罠というのが正確なところでしょうか。基本、サスペンスなりミステリーなりといったジャンルなので、読者に対しある程度罠が仕掛けられるのは当然なのですが、作家によって罠の担う重さなり、作品のオリジナリティのプロットへの依存度なりといったものは違います。人物の感情の動きを丁寧・繊細に描くことで、あくまで読者の感動はそこに起因させ、ギミックは副次的なものに留める作家もいれば、完全にプロットの奇異さに作品のアイデンティティを全て委ねてしまっている、日本語も覚束ない三流作家もいます。では東野圭吾はどうかというと、「エンターテイメントとしていい按配である」という評価になるでしょうか。

この2作品は、たまたま自分が書店の彼のコーナーで適当に手に取っただけで、ギミックのタイプも作品のスケール感も全く異なります。が、やろうと思えばできるであろう、登場人物の感情のダイナミクスで読者の琴線を刺激するということをせず、仕掛けておいたプロット上の罠によるサプライズの方を優先させるというところに、類似点が見て取れます。
いや、実際には作者としてはギミックはあくまでスパイスで、感情描写を捉えて欲しいという想いがあったのかも知れませんが、正直この人の書き口というのが、どうにも叙事的なんですよね。作家によっては、事象ばかりを淡々と述べているようで、その実こちらには各人物の機微が非常に生々しく伝わってくるということもあるんですが、彼の場合は逆で、感情の細やかな動きを述べているはずなのに、それらがリアリティを持ってこちらに響かない。

『宿命』については、小学校時代のライバル同士が刑事と被疑者となっており、そこにヒロインが絶望的な絡み方をすることで、否が応でもドラマチックに盛り上がるわけですが、読者が自然と期待する展開には、嫌がらせかのようにしないというところが、結局ギミック(男二人の関係、およびキーとなる女性との関係)だけが印象に残り、得るものがなかったなぁ的な感覚に陥る理由なのではないかと。個人的なギミック難易度は70%くらいなんですが、平均を採ればかなり低そうな気もします。
ちなみに、東野作品が好きな同僚が言うには、作者は女性嫌いまたは女性不信の傾向があるとのことなんですが、なるほどだから主人公とヒロインが最後こうなるんだろうなぁと妙に納得してしまいます。

『どちらかが彼女を殺した』は、ある種「難関校の受験問題」のようなもので、且つ文庫化にあたり重要描写をカットしてさらに難易度を高くしたそうで、最初から犯人当てなぞする気のない自分のような与太読者にとっては、もぉわけが解りません。あまりに「どちらが犯人か」という描写ばかりなので、自分はナナメ上の予想をしていたのですが、結果については是非実際に読んでいただきたく。せっかくお馴染みの加賀恭一郎が出てくるにも関わらず、本作においては完全に脇役というか敵役というか、よって彼の心情描写は皆無で、それが本作を「受験問題」化している一因でもあるのかなと。クライマックス、「犯人」「犯人でないほう」って、ギミック極まれりでないの…。最後、主人公と加賀のやり取りに大団円的なものが凝縮されているとは感じますが。

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